江古田文学とは

『江古田文学』の成立過程

日本大学芸術学部文芸学科発刊の『江古田文学』は、慶應大学の『三田文学』、早稲田大学の『早稲田文学』と並び称される、老舗の有力文芸雑誌です。
『江古田文学』が創刊されたのは、1950年です。我が国が敗戦の傷から癒え、高度経済成長に突入したまさにその頃のことでした。

翌年には江古田文学会が発足。中桐雅夫・十返肇・池田みち子・金達寿・妻木新平など、日芸卒の詩人・作家・批評家たちの作品が掲載されるようになりました。

いま名前を挙げた人々は、いずれも日本文学史の重要人物であり、イデオロギーや政治的立場で、あるいは人種の違いで人々が分断される時代に、彼らは「日藝魂」「日藝文芸学科魂」という一点で共闘し、作品を寄せたのです。

当時の寄稿者には、三浦朱門(第7代文化庁長官、日本大学芸術学部教授)、神保光太郎(詩人、日本大学芸術学部教授)、進藤純孝(批評家、日本大学芸術学部教授)などの名が見られます。

休刊から復刊まで

その後、大学紛争の混乱のなか、『江古田文学』は休刊します。哲学者・鬼頭英一の自殺、作家・高橋和巳や詩人・菅谷規矩雄の自死に近い死に象徴されるように、我が国は「文学」「哲学」そのものの危機の時代を迎えていました。
ですが、『江古田文学』休刊時代、文芸学科の教員・学生はただ息を潜めていたわけではありませんでした。

まず教員主体の『宝島』、次いで学生主体の『新しい樹』が創刊されます。これらは名前こそ違えど、『江古田文学』の後継誌と言えます。
多くの人々が、あるいは国家そのものが危機に瀕するなかで、文芸学科の教員・学生は文学の孤塁を守り続けたのです。

『宝島』編集方針は、此経啓助「六〇年代の文芸学科」によると「大学の研究室を足場として、現実の日本の文学とか芸術の在りかたに対して独自の発言をし、それをまた作品で実現して行くような雑誌」というものでした。
「象牙の塔」に閉じこもるのでも、時代に棹差すのでもなく、「大学」に根ざしつつ「現実の日本の文学」に打って出るあり方。この精神性は、現在100号を超える刊行数を誇る『江古田文学』にも脈々と受け継がれています。

そして1981年11月、『江古田文学』は復刊されました。以来本誌は、日本を代表する文芸誌の一つとして、日本文学の歴史を支えてきました。

『江古田文学』の存在が意味するもの

私たちは、「過去」でも「未来」でもなく「現在」を生きています。しかし「現在」とはなんでしょうか。「現在」とはどういう時代なのでしょうか。そもそも私たちは、なぜ「現在」を生きていると言い切れるのでしょうか。
「現在」は「過去」があるから成り立ちます。そして私たちは「過去」を、「歴史」を見ることで、「現在」がどのような時代かを知ることができます。「現在」は、歴史がなければ存在しえないのです。私たちは「現在」を懸命に生き、思索することで、「未来」へ向かうヒントを得るのです。

このように「現在」を生きることは、「過去」との繋がりを感じることであり、また「未来」へ向かってゆくことでもあります。
そして、歴史がなければ「いま」はないこと、また「いま」の積み重ねが「歴史」になってゆくことを、文学こそは教えているのではないでしょうか。

私たちは文学をすることで、現在を深め、過去と繋がり、未来を知るのではないでしょうか。もしもこの世に文学がなければ、私たちは地上から切り離され、ふわふわと何処かに漂っていってしまうでしょう。

文学は、私たちの生が歴史と繋がれていることを教えてくれます。文学なくして人生はない。『江古田文学』は、並み居る文芸雑誌のなかで、際立った「文学」の旗手としてあり続けてきました。

そしてこれからも旗を振り続けていきます。